菊一の歴史
菊一文珠四郎包永は刀工集団の大和五派の中の一つ手掻派(てがいは)の流れを組んでいます。包永(かねなが)が開いた手掻派は名工の誉れとして日本全国各地に広がり、750年を超える歴史の中で長きに渡って非常に優れた刀を作り続けました。
菊一文珠四郎包永はその伝統を守り次世代に引き継ぐため、現在は刀鍛冶の技術を基に、プロの職人だけでなくご家庭でも使用して頂ける料理包丁や鋏、また爪切りなどの小物を販売しています。
菊一文珠四郎包永の歩み
刀工集団 手掻派と菊一文珠四郎包永の屋号の由来について
鎌倉時代中期~末期
・大和国(やまとのくに:現在の奈良県)の刀鍛冶、手掻派は、東大寺西門である転害門あたりに居し、転害門の西方の包永一族とその職人集団が住んだのは、現在の奈良市包永町とされている。
そこで手掻派の開祖 平三郎こと「包永」(初期銘:包利)が持ち前の才能によって数多くの素晴らしい太刀・打刀を鍛える
*国宝一振(静嘉堂文庫美術館 所蔵)・重要文化財六振・重要美術品九振に認定(2代目と思われる作品もあり)
・包氏は相州正宗に学び、正宗十哲とのひとりとして活躍。後に美濃多芸庄志津に移住し、志津三郎兼氏として美濃伝・志津系を築いたとされる。
*手掻派の太刀は、身幅は(みはば)は尋常、腰反り(こしぞり)と鎬(しのぎ)が高く、鎬幅(しのぎはば)の広いのが特徴で、大和伝の刀の代表作といえる。また、地鉄(じがね)は地沸(じにえ)が強く、板目肌(いためはだ)に柾目(まさめ)、沸出来(にえでき)の直刃(すぐは)に小互の目(こぐのめ)が混じるのも特徴である。
室町時代
手掻鍛冶が大和鍛冶の主流となる
安土・桃山時代
包守による『文殊鍛冶(もんじゅかじ)』の成立
名前の由来:初代包永の孫・包次こと四郎左衛門が文殊菩薩を信仰し、祈願を込めて作刀にあたると文殊の化身が向槌に現れてみごとな名刀を鍛えあげた。そのため後に般若寺から文殊の称を許され、代々文殊四郎を名乗っていたといわれる
江戸時代
包国こと文殊九郎三郎とその弟か弟弟子にあたる、重国が徳川家康に招かれ駿府城下で作刀。
「南紀重国」と称され新刀の巨匠の誉れ高い重国が紀州藩のお抱え刀工となる。その後十一代にわたり幕府のために作刀にあたり、紀州文殊として江戸末期まで続く。
*重要文化財一振、重要美術品七振に認定
・井道七郎兵衛包光が伏見に移り、伏見文殊と呼ばれる
・奈良の文珠鍛冶の本家、初代文珠四郎長左衛門包守が豊後守を受領。
二代目包守(初名:包元)は文殊清左衛門と称し、播州でも作刀後、奈良 北室に移り住む。
三代目包守以下は文殊四郎と名乗り大阪 泉州堺へ移行。その後三代に渡り刃物鍛冶として栄え、堺刃物師は堺文殊と唱える
・奈良 西林寺に移り住んだ善左衛門包常の家系の近江守金近が菊一文殊を冠称。北室の包元の一家と共に文殊四郎某として奈良物と称される道中差しを作り幕末の頃までさかんに市販する。
*「改正絵入 南都名所記」にならめいぶつとして“もんじゅ四郎小がたな”が紹介される
大和物の中で最も作品が多く残っているとされる手掻派は開祖の「包永」以後「包清」、「包吉」、「包次」、「包俊」、「包光」、「包長」、「包真」など、同銘が何代も続き、大和物を代表的する一門として皆「包」の字を名に付けています。
大和鍛冶の諸派は各地に分派し、その一派が元禄時代(江戸中期)に堺に移り、山之上文珠四郎一門として出刃包丁や柳包丁などの優れた料理包丁を作り、堺包丁の名を高めたと言われています。奈良の本家では、寛永(1624~38年)に屋号を菊一文珠四郎包永と称し、鎌倉時代から長きに渡り日本を代表する名工の名前を今に残しています。
参考文献:奈良市史
会社概要
会社名 | 株式会社 菊一文珠四郎包永(きくいちもんじゅしろうかねなが) |
代表取締役 | 柳澤 育代 |
相談役 | 松岡 泰夫 |
設立 | 明治3年 |
従業員数 | 48名 |
URL | kikuichi.com |