菊一文珠四郎包永 伝聞 No.1

当店「菊一文珠四郎包永(きくいちもんじゅしろうかねなが)」は、読みにくい店名のためか、お店の歴史・由来等をよく聞かれます。菊一ブログでは、これから何回かに分けて、伝え聞いた当店の歴史についてご紹介します。
 今回は、「包永(かねなが)」について
菊一文珠四郎包永 本店
菊一文珠四郎包永 本店

「包永」は鎌倉時代より名品を残してきた刀工(刀鍛冶)達です。特に鎌倉時代から三代にかけて、下記のような、「包永」銘の太刀(国宝1、重文6)を残しています。(文化庁 国指定文化財データベースより)

 国宝・・・・・・・・・・東京都 公益財団法人静嘉堂文庫
重要文化財・・・・東京国立博物館文化庁分室、 四条畷神社、姫路神社、個人所有

太刀
太刀(イラスト)
また、大正時代に出版された「詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形」(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)には、「名物(とくに姿が優れているもの)」が二振り掲載されています。
  【児手柏(このてがしわ)】
児手柏
児手柏

刃の面がそれぞれ異なる刀だったようです。前出「詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形」に、刃紋が残されていました。

この刀の名は、大和奈良坂にある「児手柏」の木の葉のように表と裏の模様が異なるため、この名がついたとのこと。この「児手柏」は奈良豆彦神社にあったそうですが、昭和二十七年(1952)に枯れてしまったようです。

「児手柏」は戦国時代、細川幽斉が所有し、子に伝わったものを、家康が熱望し銀500貫で譲りうけ、その後、家康より水戸家へ渡り、関東大震災で焼身したと伝わっているようです。当店では、江戸城が火災に見舞われた折に、消失したとも伝わっています。
【白樫(しらかし)】
白樫という山伏がこの刀を所有していたようで、その後、寛永3年、毛利家から京極家へ伝わったとのこと。ただ、どのような太刀だったのか、残念ながら詳しい資料が残されていません。

今回は「包永」銘の太刀等をご紹介しました。刀の焼身・消失などが数多くあり、少ない資料の中には、色々な説が見受けられ、歴史の長さを感じさせられます。
はっきりとしない事も多いので、今後も調べていく予定です。

 

次の機会には、「包永」と縁が深い「転害門(てがいもん)」のお話を予定しています。