菊一文珠四郎包永 伝聞 No2 大和五派 手搔 包永

弊社は鎌倉時代の 手掻派刀工「包永(かねなが)」を祖にもち、その技を現在まで受け継ぐ打刃物を製造・販売しています。

前回、菊一文珠四郎包永 伝聞 NO1では、「包永(かねなが)」が残した刀をご紹介しました。今回はそんな手搔派 文珠四郎包永 の名前にかかわるお話です。


まずは、「手搔派」について

大和の国(奈良)には、大和五派(やまとごは)といわれる刀工集団がおりました。
千手院(せんじゅいん)、尻懸(しっかけ)、当麻(たいま)、保昌(ほうしょう)、手掻(てがい)です。

包永は「手搔派」ですが、この名称は、初代包永(平三郎)が、鎌倉時代後期、東大寺の転害門(てがいもん)付近に住んでいたことが由来になっています。

転害門
国宝 転害門 平家の兵火、三好・松永の戦いの2回の戦火にも焼け残った、奈良時代の貴重な建物です

転害門(てがいもん)は、東大寺の西側にあり、「碾磑門」「手掻門」「手貝門」と色々な漢字が使われており、包永一門はここから手掻派と呼ばれるようになったようです。

ちなみに、「手搔」の由来は・・・
高僧 行基が、大仏開眼供養会(752年)のため、インドからいらした僧侶たちを転害門で出迎えた時に、手を掻くように動かして招き入れたことからつけられたといわれています。到着を心待ちにされていたんですね。

包永一族は長きにわたりこの地に住んでいたようで、転害門前には、包永町という町名がいまも残っています。


では、次になぜ名前に「文珠」がついたのかのお話です。

包永の子(別説では孫)も、四郎左衛門も刀工となり、日々作刀の修行をしておりましたが、同時に般若寺に足しげく通う、信仰心の熱い方だったようです。

般若寺 楼門
国宝 般若寺 楼門 昨年秋の風景。爽やかな風が吹いていました。

般若寺 寺伝によると、四郎左衛門がご本尊の文殊菩薩像に立派な刀を作りたいと心より祈願したところ、文殊様の化身が現れて、四郎と一緒に見事な刀を作り上げたとのこと。この功績で、般若寺より、文珠を名乗ることを許され、その後、文珠四郎と名乗るようになったと伝わっています。

当社では、この時作成した刀が、現在、静嘉堂文庫美術館に所蔵されている太刀(国宝)と伝えられています。

刀鍛冶
刀工 文珠四郎をイメージした弊社のロゴ

 


また、文珠四郎にかかわる伝説が、若草山麓の野上神社にも残っています。

野上神社
野上神社 奥が若草山。

野上神社は、毎年行われる山焼き行事の無事を祈願する、重要なお社で、山焼きの際は、このお社で祭典を行ってから山に点火されます。
御祭神は、「草野姫命(くさのひめのみこと)」、火の神様です。

野上神社
野上神社 金床石と四郎試し切りの石

その野上神社の東側(写真 お社の右側)にある方形の石が、文珠四郎が刀を作る際に使用した金床石、西側(写真 お社の左奥側)にある石は、文珠四郎の刀で切りつけた石といわれています。

野上神社
お社の左後ろにある、文珠四郎が試し切りをしたといわれる岩 切れ目が見えます

この伝説は、江戸期まで言い伝えられていたようで、江戸時代の尊皇派 高山彦九郎の「甲午春旅日記」に、野上神社のことが、以下のように書き残されています。

~安永三年(1774)二月十五日~
「山下に文殊四郎の社有、東の方たかくとこ石、西の方にこしらへし刀をこころみし石也とてきれて有り」


昔から変わらず、野上神社は若草山のふもとに鎮座されています。爽やかな風が吹き抜け、悠久の歴史を感じることができる所です。

奈良公園にいらした際は、ぜひ立ち寄られてはいかがでしょうか?

野上神社
左側すぐそばにある建物は若草山南ゲートです。

 

参考文献:

「奈良市史 工芸編」 編集者 奈良市史編集審議会
「春日大社のすべて」 著 者 花山院 弘匡